ウォーキングとバイクと転職

50のオヤジが2年がかりで転職を目指します。息抜きのブログです。

カブで村を走る(天童市 旧高擶村、山形市 旧出羽村 旧明治村 旧千歳村 旧鈴川村)

〇山形市の北部から東部の村をぐるりと回ってきた。


(範囲は大きい。60Kmもカブを走らせてしまった)


〇中山町の旧長崎町役場から出発し、東側の大道を行く。高擶村に抜ける途中に明治村
がある。灰塚、中野目、渋江の3集落からなり、立谷川と白川(馬見ヶ崎川)、須川の合流点に位置する。旧道は一部通行禁止になったり高速道路で寸断されたりしている。


(写真1 灰塚のバス停跡)


〇灰塚のバス停は「明治地区サービス商店会」が寄贈した待合スペース付きのバス停だ。今はおそらく機能していないがここを路線バスが走っていた頃、村のバス待ち人のために掘っ建て小屋が建てられたのだろう。村の商店会に加盟している商店名がある。ちなみにここの場合は、19軒のお店があったようだ。呉服屋2、魚屋2、雑貨屋2、肉屋1、履物屋1、輪業店1、大工1、その他9軒の構成だ。おそらく文房具屋や電気屋、燃料店に新聞屋、牛乳屋なんかもあったんじゃないか、と思う。村を知る貴重な資料だ。


〇たいがい村役場のすぐそばには商店街があり、日常のものならそこで全て買い揃えが出来たんだと思う。面白いのが輪業店だ。昔の人の足は自転車かカブだった。砂利道でパンクもしょっちゅうしてたと思う。


(写真2 おそらくここが明治村役場跡)


〇廃品置き場になっていた。


〇東に向かって少し行くと高擶村(たかだまむら)に出る。高擶を中心に清池(しょうげ)、長岡、芳賀の4集落からなる。芳賀は大型イオンが出来て新駅もオープン、最近になって大規模な住宅団地が形成されたところだ。清池には工業団地が、長岡も住宅団地がある。高擶は静かで昔ながらの集落を形成する。


(写真3 かつてこういった雑貨屋が村に1軒は存在した)


〇店に入ると懐かしい雰囲気と匂いがする。ニコニコ顔のご主人に村役場の場所を聞く。住宅地図で詳しく教えてくれた。かつてこういった雑貨店は各家々を訪問して御用聞き周りをした。そして注文された品物を配達し次回の注文を聞き取った。つけも効くし配達無料だがその分スーパー程安くはない。地域密着で誰よりも早耳だ。今の時代、こうしたお店の多くが廃業している。


〇余談だが、田舎で昔「酒、塩、米、たばこ」を扱ってた商店や簡易郵便局をやってた家は旧家か金持ちだ。すべて専売品だったので、その許可を得られるのは村の名士と決まっていたからだ。そういう家は村長や助役を出したり、家の人はインテリが多かったりする。田舎まわりをしてこういう店を見つけたらいろいろ聞くといい。どこにも書いてない昔の土地の逸話が聞けたりする。そういう人たちはたいがい高齢であと10年もたてば聞けなくなってしまう。まわるなら今しかない。


(写真4 せっかくなんで城跡を見る)


〇高擶には天童最上氏の支城があった。中野最上氏の義光が家督争いで父に命を狙われた時期、しばらくこの城にかくまわれていたようだ。その偽名も活かしてる。


(高楡小僧丸(たかにれこぞうまる)。くそ生意気なガキみたいな名前だ)


〇旧村役場には鉄格子のガラス窓がある。廃村後は一時銀行の支店にも使われたようで


(写真5 独特の風情を醸し出している)


〇城の本丸には


(築城600年記念碑がある)


〇当時敵方だった天童氏。「敵の敵は味方」とその懐に逃げ込んだ少年。なかなか出来そうで出来ないことだ。同じことをやった人に石田三成がいる。あっちは家康の懐に逃げ込んでいる。「ここで殺せば自分の器が下がる。だから殺せない。でしょ?」とヌケヌケとやって来るところが「クソガキ」であり、高擶の殿様も苦笑いしたことだろう。


〇高擶は大農家のサクランボ御殿が立ち並ぶ静かな集落だ。天童は温泉あり住宅多しで騒がしい街、という印象があるが、高擶は落ち着きあるしっとりとした街だ。風情もいい。


〇高擶を出て山形市方面に南下する。工業団地や住宅街。当時とは似ても似つかぬ風景になった山形市近郊。出羽村に入るとすぐに中心地の漆山だ。それを過ぎると


(写真6 多分ここが出羽村役場跡。出羽小学校の向かいの消防小屋)


〇志村の役場跡。出羽村は漆山、千手堂、七浦の3集落からなるが、志村は漆山の集落の南端に位置する。ここもそうだが、次の千歳村もパッとしない。


(千歳村から鈴川村へ。いよいよ市街地だ。旧道をたどることが難しくなる)



(写真7 自信はないが、地図だとここ。たぶんここ。千歳村役場跡)


〇これだけだと「どこここ?」になるので一応道の向かいになにがあるのか写してきた。


(お茶のうぜん園 総合葬祭うぜん社 がある)


〇千歳村は長町、落合の2集落からなる。地図を見て気づいた。仙山線がない。千歳村は仙山線が通った後、大きく発展した村だ。


〇羽州街道を外れ川沿いを東に走る。道は錯綜し、自分の位置を確認することも困難になる。山形市内で最も住宅が密集する鈴川村に入ったのだ。「鈴川ラビリンス」という人もいる。道が細くて袋路が多い。「都市計画なきまま、思うがまま」住宅が立ち並んだ地区だ。


(写真8 鈴川迷宮。似たような住宅と家がびっしりと立ち並ぶ)


〇鈴川村は上山家、下山家、印役、双月、大野目、高原の6つの集落から成り立つ。中心は上山家だ。よみは「かみやんべ」と読む。ちなみに地図ではこのあたりは一面の畑だ。今は山形の都心へ向かう車の北の入口が大野目にあり、市内でも交通量が非常に多い場所だ。


(写真9 印役入口)


〇地図ではここからが民家のはじまりだったようだ。今の花楯町にあたるが、昔は一帯全て「印役」と呼ばれていた。ちなみに読みは「いんにゃく」で「いんやく」ではない。


〇東に細道を走る。一通や車両通行不可の看板がバシバシ入る。やはり迷宮だ。


(写真10 下山家に入ってしまう)


〇山際近くに下山家の集落がある。古民家もあり、一気に風景は田舎じみる。というか、たぶん昔は炭焼きや猟で生活してたんだと思う。来過ぎたことをジモティのおばあちゃんから教えてもらった。「山家っていっても今は鈴川〇〇丁目になってるから。バイパスより西だよ、役場は。」「うそ?」「鈴川村は大きいんだ。なめちゃだめだよ。」・・・鈴川村、恐るべし。


(写真11 30分の放浪の末、やっとたどり着いた村役場跡)


〇「鈴川コミニティーセンター」が旧鈴川村役場跡。すばらしい建物だった。さすがにマンモス村。ちなみに昔は一括り。住所は全て「山家」。今の町名は昭和4年には1つもない。「山家」は巨大なひとかたまりの集落として馬見ヶ崎川東岸にドカンと広がっていた。


(写真12 村役場近くの旧商店街)


〇今は牛乳屋と酒造場が1軒ずつ、ポツンとあるだけ。昔はさぞ賑やかだったろう、と思う。「秀鳳」は俺が山形市内で最も好きな酒蔵だ。甘くてきつめの酒が好きなら(秋田酒が好きな人なら)秀鳳はうまいと感じると思う。新潟系のサッパリ辛口が好きな人はダメだと思う。パンチが効いてクセがある酒だが、ここの酒に慣れると他が飲めなくなる(水みたいに感じてしまう)。醸造業が盛んだった、在りし日の鈴川村を代表するような酒蔵だ。


〇今回は一気に北と東を回ってみた。

カブで村を走る(山形市 旧大郷村、中山町 旧長崎町)

(前回の続きになる)


〇大郷村(おおさとむら)に入るとすぐに船町という集落に出る。延文元年(1356年)から明治までの約500年間、船町港という川港があったという。輸入品は塩、黒砂糖、鯖、酒、金物、陶器。一方で米、紅花、生糸、青麻を輸出。問屋3軒、旅館1件があったと書いてある。


〇後で調べたのだが、この船町港は大きな船も接岸が可能なことから船荷の取扱高が大きく、酒田、大石田に次ぐ活況だったらしい。


(写真12 看板はあるが遺構は全く残っていないようだ)


〇船町の街並みは静かだ。エル字型の集落で、人口もそれなりにいる。


(写真13 須川沿いに家が並ぶ船町)


〇大郷村は中野、船町、成安、今塚、見崎の5つの集落からなる。中心地は中野だ。船町を出て国道112号線を渡るとすぐに城下町中野に入る。


(写真14 村役場はたぶんここ)


〇普通の住宅地になっていた。役場の形跡は全くない。


(なんとなく商店街だった感じの雰囲気はある)


〇山形の近隣村落の小さな商店街はほぼ死滅している。「商店街スタンプ会」という錆びた看板をぶら下げっぱなしの廃屋もある。


〇街道に戻る途中、中野城跡をチラ見する。


(写真15 大郷小学校の敷地に城があったようだ)


〇15世紀初頭の築城。中野氏が根を張った、と看板にある。最上家の支族で、中野氏6代のうち4人が本家の当主を兼ねたらしい。最後の6代目義時は兄の義光と宗家(本家のこと)の家督争いに敗れて切腹、その子は仙台に逃れて中野氏は滅亡、とある。


(本丸は東西340m、南北250m。高さ11mの土塁があったらしい)


〇最上家の支配は一貫して「連邦制」だ。宗家は名ばかりの羽州探題(秋田県と山形県の守護)で伊達家の操り人形の時代も長い。管領姓の「斯波」を捨て、地名の「最上」に改姓しても「室町から来た青白い公家武士」となめられ続け、全く命令を聞かない地元の侍たちや公然と敵対する分家や同族が多くいた。だいたい有力な血族だけ数えても30家はある。それが離合集散敵味方する、まさに「最上連邦」だった。その中でも強力な親族衆が宗家を支え、当主を交代制のようにして出していた。持ちまわり番みたいなものだが、戦国期はほぼほぼ中野最上氏が宗家の頭領を世襲している。


〇街道を北上するといよいよ長崎町だ。長崎、達磨寺、向新田の3集落からなる。


(写真16 向新田付近)


〇この付近は道路がいいが、達磨寺からは旧道になり道幅が細くなる。


(写真17 達磨寺の集落)


〇地名の由来になった達磨寺を見る。


(達磨寺)


〇この山門は最上義光が天童最上の頼澄を滅ぼした際、舞鶴城の愛宕山本丸から凱旋記念に分捕ってきたものらしい。中野に近いこの地に山門を建て、中野最上の威光を示したものと見られる。義光は戦いに勝つとたいがい記念品を持ち帰るマニアックなコレクターだ。国分寺のような大型の建物から直江兼続の旗印といった小物に至るまで、とにかく勝つたびかっぱらう。古代のローマみたいに戦国期の山形市には戦勝モニュメントがあちこちに点在していたのかもしれない。


〇看板には「つんぶくだるま」という昔話が書いてあった。ここの達磨は疫病に効くらしい。


〇達磨の名物と言えば桜。見たことがない。洋菓子屋もうまいと聞く。食ったことがない。今度機会があれば行ってみたい。


〇いよいよ長崎に入る。


(写真18 長崎楯の城下町 長崎)


〇平家滅亡後没落しこの地に漂着した中山忠親の末が支配した長崎。内大臣まで上った藤原の名門も戦国期には武装集団になり長崎楯を築いた。長崎衆はおとなしい人が多い。お公家文化が根付いているのかもしれない。


(写真19 旧長崎町役場)


〇現在の中山町役場になっている。


〇いよいよ大詰めだ。


(写真20 ヒョロヒョロ街道の突き当り)


〇旧長崎町役場から北上し100mほどでヒョロヒョロ街道は終わっていた。十字路のように見えるが、止まれの標識から先には寺があり行き止まりになっている。長谷堂から延々と続いたダルい細道。


(北の始点から長谷堂方面に見るヒョロヒョロ街道)


〇旧長崎町役場の前に「市神石」がある。70cmくらいのひょろ長い石で、市を開く場所の目印だったという。長崎町では月に六度の市が開かれ(六斎市という)、近隣の買い物客で活況を呈したらしく「長崎市(ながさきいち)」と呼ばれていたらしい。長崎から道は山形、高擶、寒河江、左沢、そして山辺の5市町村に放射状に分岐していた。山形県内陸地方の最大の交通の要衝だったのが長崎町で、昭和14年の人口は6,809人。東村山郡第2の町として繁栄していた。


(長崎町の市神石)


〇山形市近郊の西側の村落をめぐった3日間。門伝四辻では置賜と村山の物品が売り買いされ、大曾根村の替所では米の売買が行われ、要害の西から作谷沢に抜ける峠道を人々が繁く往来していた。船町港で陸揚げされた物資は山辺、長崎の市で売買され、その豊かな力が中野氏などの大族を作り、中世から近世にかけての山形盆地の支配者を生み出した。1,000年以上の長い間、山形の西の山々の恵みは古い集落をつくり、最上川は人々の生活と命を支えていた。今は全く静かに黙り込んでしまった村々。その陰にこんな歴史があった。今とのギャップに驚く俺がいる。1本のヒョロヒョロ街道がそれを教えてくれた。


〇山形市の東側には高擶から出羽、明治、そして千歳、鈴川の各村々がある。市街化が西側以上に進んだ地区だが、なにか得るものがあるかもしれない。転職計画も進めなきゃいけない、が、この村巡り、何となくだが将来役に立つような気がする。まわっても損なし、と考え回ることにした。

カブで村を走る(山辺町旧相模村、山辺町)


〇大曾根村の替所を起点に、いよいよヒョロヒョロ街道の終点まで行ってみた。


(山辺町周辺)


〇本来の読みが町名のごとく「やまのべ」なのか駅名のごとく「やまべ」なのか分からないが、いずれにせよ「やまのへ」、つまり山のヘリという意味なんだと思う。


(写真1 ここが始点だ)


〇大曾根村の替所から相模村の小楯までの旧街道は消滅していた。換地処分でも入ったのか、一面の田んぼ。残念。小楯から出発する。


〇北上すると相模村(さがみむら)に入る。現在の山辺町になる。要害、根際、大塚の3集落からなる。なぜ「相模」なのかは分からない。例えばお隣の大曾根は荘園名だ。「相模」じゃなく「坂見」かな(山際だから)?国名?なんで「相模」なんだろ。ネットで調べたが答えが全く見つからなかった。


(写真2 大塚の中心部)


〇写真の道を左折し村役場がある要害を目指す。


(写真3 山際に張り付く集落が要害だ)


(写真4 相模村役場跡)


〇なんでこんなに街道から外れたところが中心なんだろ、と思ったら理由があった。今は草ボウボウだが、かつて要害から西の山に向かって白坂峠を越え玉虫沼に抜ける峠道があった。この道が作谷沢に抜ける一番の近道だった、と峠入口の看板にある。昭和40年ころまでは機能していたようだ。また、要害から北に根際を越え左沢に抜ける山際の道がある。ここもかつての交通の要衝だ。


〇大塚に戻り、その地名の由来の古墳を見る。


(写真5 大塚天神古墳。日本海側最北限の畿内式円墳)


〇ここが大和朝廷の勢力の限界点だ。ここから先は蝦夷の天地になる。


〇山辺町に向かうかつての田んぼも


(写真6 住宅が立ち並ぶ)


〇ヒョロヒョロ道も国道に昇格する。458号線。とはいえ相変わらずの狭路だ。


〇ついでに言っとくと、バイク乗りなら気づいたかもしれないが、写真は面倒なのでバイクに乗ったまま撮影している。でもそれはそれでこのブログを読んでる人達もカブツーリングの臨場感を味わうような感覚になれていいんじゃない?と後付けで思ったりした。結果オーライだ。


〇山辺町(やまのべまち)に入る。昭和14年当時の山辺町の人口は6,559人。山野辺2万石の城下町だ。


〇今の山辺の旧市街と言えば


(写真7 山辺町の旧市街通り)


 この通りだが、昭和14年の地図にこの通りは存在しない。その頃のメインストリートは一本東にある


(写真8 こちらが古街道。山辺町役場跡近辺)


 こっちの道で、今もこの通りが国道458号線になっている。ちなみに


(写真9 現在のメインストリート)


 この大通りは昔からあるようだ。城は町の真ん中にある。この道は城から一番遠い東側の南北線。いわばバイパスだ。よそ者や怪しい者は城外を歩かせたようだ。


〇町の北側に船町に続く道がある。


(写真10 めちゃくちゃ細い)


〇そのうち砂利道になる。


(写真11 ハンターカブが欲しい)


〇いい加減ダートに飽きたので新道を走る。舗装道路のありがたみを実感する。一度須川を渡り再び東へ。大郷村に入村だ。