ウォーキングとバイクと転職

50のオヤジが2年がかりで転職を目指します。息抜きのブログです。

カブで村を走る(山形市 旧大郷村、中山町 旧長崎町)

(前回の続きになる)


〇大郷村(おおさとむら)に入るとすぐに船町という集落に出る。延文元年(1356年)から明治までの約500年間、船町港という川港があったという。輸入品は塩、黒砂糖、鯖、酒、金物、陶器。一方で米、紅花、生糸、青麻を輸出。問屋3軒、旅館1件があったと書いてある。


〇後で調べたのだが、この船町港は大きな船も接岸が可能なことから船荷の取扱高が大きく、酒田、大石田に次ぐ活況だったらしい。


(写真12 看板はあるが遺構は全く残っていないようだ)


〇船町の街並みは静かだ。エル字型の集落で、人口もそれなりにいる。


(写真13 須川沿いに家が並ぶ船町)


〇大郷村は中野、船町、成安、今塚、見崎の5つの集落からなる。中心地は中野だ。船町を出て国道112号線を渡るとすぐに城下町中野に入る。


(写真14 村役場はたぶんここ)


〇普通の住宅地になっていた。役場の形跡は全くない。


(なんとなく商店街だった感じの雰囲気はある)


〇山形の近隣村落の小さな商店街はほぼ死滅している。「商店街スタンプ会」という錆びた看板をぶら下げっぱなしの廃屋もある。


〇街道に戻る途中、中野城跡をチラ見する。


(写真15 大郷小学校の敷地に城があったようだ)


〇15世紀初頭の築城。中野氏が根を張った、と看板にある。最上家の支族で、中野氏6代のうち4人が本家の当主を兼ねたらしい。最後の6代目義時は兄の義光と宗家(本家のこと)の家督争いに敗れて切腹、その子は仙台に逃れて中野氏は滅亡、とある。


(本丸は東西340m、南北250m。高さ11mの土塁があったらしい)


〇最上家の支配は一貫して「連邦制」だ。宗家は名ばかりの羽州探題(秋田県と山形県の守護)で伊達家の操り人形の時代も長い。管領姓の「斯波」を捨て、地名の「最上」に改姓しても「室町から来た青白い公家武士」となめられ続け、全く命令を聞かない地元の侍たちや公然と敵対する分家や同族が多くいた。だいたい有力な血族だけ数えても30家はある。それが離合集散敵味方する、まさに「最上連邦」だった。その中でも強力な親族衆が宗家を支え、当主を交代制のようにして出していた。持ちまわり番みたいなものだが、戦国期はほぼほぼ中野最上氏が宗家の頭領を世襲している。


〇街道を北上するといよいよ長崎町だ。長崎、達磨寺、向新田の3集落からなる。


(写真16 向新田付近)


〇この付近は道路がいいが、達磨寺からは旧道になり道幅が細くなる。


(写真17 達磨寺の集落)


〇地名の由来になった達磨寺を見る。


(達磨寺)


〇この山門は最上義光が天童最上の頼澄を滅ぼした際、舞鶴城の愛宕山本丸から凱旋記念に分捕ってきたものらしい。中野に近いこの地に山門を建て、中野最上の威光を示したものと見られる。義光は戦いに勝つとたいがい記念品を持ち帰るマニアックなコレクターだ。国分寺のような大型の建物から直江兼続の旗印といった小物に至るまで、とにかく勝つたびかっぱらう。古代のローマみたいに戦国期の山形市には戦勝モニュメントがあちこちに点在していたのかもしれない。


〇看板には「つんぶくだるま」という昔話が書いてあった。ここの達磨は疫病に効くらしい。


〇達磨の名物と言えば桜。見たことがない。洋菓子屋もうまいと聞く。食ったことがない。今度機会があれば行ってみたい。


〇いよいよ長崎に入る。


(写真18 長崎楯の城下町 長崎)


〇平家滅亡後没落しこの地に漂着した中山忠親の末が支配した長崎。内大臣まで上った藤原の名門も戦国期には武装集団になり長崎楯を築いた。長崎衆はおとなしい人が多い。お公家文化が根付いているのかもしれない。


(写真19 旧長崎町役場)


〇現在の中山町役場になっている。


〇いよいよ大詰めだ。


(写真20 ヒョロヒョロ街道の突き当り)


〇旧長崎町役場から北上し100mほどでヒョロヒョロ街道は終わっていた。十字路のように見えるが、止まれの標識から先には寺があり行き止まりになっている。長谷堂から延々と続いたダルい細道。


(北の始点から長谷堂方面に見るヒョロヒョロ街道)


〇旧長崎町役場の前に「市神石」がある。70cmくらいのひょろ長い石で、市を開く場所の目印だったという。長崎町では月に六度の市が開かれ(六斎市という)、近隣の買い物客で活況を呈したらしく「長崎市(ながさきいち)」と呼ばれていたらしい。長崎から道は山形、高擶、寒河江、左沢、そして山辺の5市町村に放射状に分岐していた。山形県内陸地方の最大の交通の要衝だったのが長崎町で、昭和14年の人口は6,809人。東村山郡第2の町として繁栄していた。


(長崎町の市神石)


〇山形市近郊の西側の村落をめぐった3日間。門伝四辻では置賜と村山の物品が売り買いされ、大曾根村の替所では米の売買が行われ、要害の西から作谷沢に抜ける峠道を人々が繁く往来していた。船町港で陸揚げされた物資は山辺、長崎の市で売買され、その豊かな力が中野氏などの大族を作り、中世から近世にかけての山形盆地の支配者を生み出した。1,000年以上の長い間、山形の西の山々の恵みは古い集落をつくり、最上川は人々の生活と命を支えていた。今は全く静かに黙り込んでしまった村々。その陰にこんな歴史があった。今とのギャップに驚く俺がいる。1本のヒョロヒョロ街道がそれを教えてくれた。


〇山形市の東側には高擶から出羽、明治、そして千歳、鈴川の各村々がある。市街化が西側以上に進んだ地区だが、なにか得るものがあるかもしれない。転職計画も進めなきゃいけない、が、この村巡り、何となくだが将来役に立つような気がする。まわっても損なし、と考え回ることにした。

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