カブで村を走る(山形市 旧柏倉門伝村、旧村木沢村、旧大曾根村)
〇本沢村の1つ北にある柏倉門伝村。ここは柏倉と門伝という集落がある。
〇門伝には「水の種」という民話がある。浦島太郎と瓜二つのお話だが亀が白蛇に変わっている。違いは竜宮城から主人公が帰るとき白い徳利をもらうところだ。コンコンと水が出てくる不思議なとっくりで、門伝は水に困らず田んぼができ、徳利をひっくりかえしたら畑谷の大沼や荒沼ができた、という話だ。
〇平野部が米の大収穫地になったのは近世になってからで、それ以前は田は山裾に作られた。今のように灌漑設備が十分でなかったから、山の斜面から流れる小川や沢の水を田んぼに引水した。だから山形市も西の山裾に集落が点在する。
(前回の続きだ)
〇細い旧道をチンたら流していると
(写真6 菅沢に着く)
〇山形市で一番大きい古墳がある。蝦夷の族長の墓らしい。山形市ができる前からこのあたりには人が住んでいた。
〇少し行くと
(写真7 新しい道に真っ二つにされた旧道)
〇この道はこの先も新しい道路に分断され続けるが、なんとかヘロヘロと北に続いていた。大変細いので脇道に間違って入ることもしばしばだ。
〇似たような集落が続き、飽きてきたので百目鬼温泉(どめきおんせん)に寄ってみる。
(写真8 しまった!タオル忘れた!)
〇もとに戻り、さらに北上する。
(北行を続ける)
(写真9 塩辛田地区。冨神山を前に見る)
〇似たような集落を過ぎると
(写真10 柏倉に着く)
〇村役場の跡はおそらく
(写真11 これだ)
〇中心部には廃業したGSの建屋と学校があった。
(柏倉門伝高等学校の記念碑)
〇はじめて聞く名だ。存在すら知らなかった。後で調べてみると、昭和23年に進駐軍の協力を得て開校した定時制高校があったらしい。東京へ巣立つ若者が後を絶たず生徒は激減、昭和37年、上山農業高校(現在の上山明新館高校)の分校になった、とある。
〇「ここじゃ食えねえ。上京すればなんとかなんべ。」・・・60年たった今も同じ状況がこの県では続いている。50を過ぎた俺ですら上京を考えてる。
〇有能な若者は田舎じゃ「出る杭」だ。みな都会に出る。しがらみを払い除け、自分の足で前に出る。残る者は保守、堅実ばかりを尊び、前に進むことに尻込みする。理不尽、非合理、非効率。村社会は一番のおバカに合わせ、みんな表面上仲良く愛想笑いを繕うところに美徳がある。素敵なデッドスパイラルだ。負け続けの美学の原点がここから生まれる。
〇少し北上すると
(とんがり山サブレ?)
(おっとお!)
(写真13 門伝四辻)
〇このあたりでは最も大きな商店街だ。バス停もある。東西に狐越街道、南北に今きたヒョロヒョロ街道が交わる。かつては交通の要衝として旅館や芝居小屋が建っていたという。
〇この門伝を境に道は一気に細く、寂しくなる。
(村木沢村役場近くに立つ村の旧標識 村木沢、若木の2集落が村を形成した)
(写真14 旧村木沢村役場 カブが似合いすぎる)
〇と、デッドスパイラル村民の車がゆっくり停車しこちらをじーっと凝視する。そそくさとその場を退散した。村木沢は昭和31年に山形市に併合されたとはいえ、いまだに村社会が確固として根付く。よそ者に対しては強烈な排他意識がある地域として有名だ。
〇車速を25kmに上げ、村を脱出した先に大曾根村がある。東村山郡に入ったようだ。大曾根村は古館を中心とし、上反田、下反田、瀧平、常明寺、芳沢の集落から成り立つ須川西岸の村だ。
(写真15 村の入口、替所のバス停で一服する)
〇なぜここの地名が替所なのか、何を交換するのか、前から疑問に思っていた。今分かったような気がする。米を金に、ないしは米を米札に替えた場所なんだと思う。
〇「旧本沢村」の記事にも書いたが、このあたりの領主は今の群馬や千葉の殿様だ。年貢米を母国まで運ぶ愚は犯さないと思う。米代以上の輸送料がかかるからだ。とすれば、換金するか、札に替える必要がある。札は、例えば200石の年貢米があるとすれば、業者がきてそれを確認し引き取って200石の米札を代官に渡す。代官は母国に米札を送る。母国ではそれを近くの業者に持ち込み、米200石と交換する。もちろん業者は幾分かの手数料を取る。つまり「米為替」みたいな米の建て替えシステムが存在したのではなかろうか、と思う。俺ですら考えるんだから江戸時代の商人なんか当たり前に考えたと思う。十分おいしく楽に儲けられるからだ。
〇たぶんここは山形市西部の村々の年貢米が集められた場所なんじゃないか、と勝手に想像した。間違っていたら申し訳ない。
〇ここから、古館に行くには軽い丘登りだ。カブはいい、と改めて思う。自転車ならヒイコラいう坂だ。
(写真16 古館の石碑群)
〇道路拡張などで1カ所に集められたんだろう。こういうのって案外あちこちにある。
(写真17 大曾根村役場跡)
〇たぶんここだと思う。村民もみな親切に「ああだこうだ」と道を教えてくれる。村の陰陽はおそらく人が作る。外部から文化と人流が流れ込むと淀みを払拭する作用がある。ここは山形市の花火大会の会場になり、夏になるとたくさんの人が出入りする。それが効いている、と思う。
〇ここからまた道を間違える。大塚でなく要害に入ってしまった。このあたりは本当に難しい。道が細すぎるし、何本も似通ったのがはしっている。
(本来のコースは青の大塚コース。赤を行き山際に入ってしまった)
〇相模村以北は次回にしたい。ゆっくり走るとカブは気持ちいい。村巡り自体は最高につまらなくなってきているが、カブにまたがっているだけで十分、そんな気持ちにさせてくれた。