自転車で村を走る(山形市旧金井村)
〇コロナがここまで続くとは思わなかった。県外への往来が自粛だ。
〇落ち込んでもしょうがないので、新たな息抜きを考えてみた。回りつくした感がある我が故郷山形市。でも視点を変えればあるいは・・・やる価値はあると思い自転車にまたがる。「村巡り」だ。
〇明治や昭和の大合併前までは日本はほとんどが村だった。あえて村視点で市内をめぐったらどうだろう、という試みだ。
(令和の時代も馬見ヶ崎川で泳ぐ子供たち)
(俺の子供の頃は盃山の麓より、少し上流の赤岩で泳ぐ子が多かった)
〇山形県の県庁所在地とはいえ、山形市の田舎ぶりは他県の人が驚くワイルドさを見せる。県庁ではカモシカが昼寝し、河原ではイノシシが土をほじくり返し、住宅地の裏山にもクマがゴロゴロいる。少し街を離れればすぐに「ムラ」が広がるのだ。
〇差し当って地図を準備する。昭和初期の地図だ。横文字は現代とは逆表記で読みにくい。山形市内でも最後に合併した金井村にスポットを当てる。戦後合併した地区で、山形市の北西に当たる。
(昭和初期の地形図。)
〇村の東端に立ってみた。
(写真1 下条五差路。金井村の東端)
〇ここから西を見ると
(写真2 国道112号線沿いに続く江俣の街並み)
〇古い住宅が並ぶ。かつては出羽三山参拝者が歩いた巡礼の道で、ここで白装束に着替え荷物を預けた。
(写真3 江俣神明神社の神明水)
〇地下水が勢いよくほとばしる。江俣が栄えた理由はこの豊富で良質な地下水にある。昔は各家に「どっこん水」と呼ばれる水場があり、家人も旅人も水辺に腰掛け、お茶を飲み、菓子を頬張りながら往来を見送った。通りは大きな家が多い。往時の繁栄が偲ばれる。
〇112号線はやがて寒河江街道となるが、陣場で山辺街道と分岐する。
(写真4 山辺街道の始点に江俣郵便局がある)
〇ここから陣場の街並みを自転車で流す。
(写真5 往時の山辺街道の景観を残す陣場の街並み)
〇閑静な旧家が軒を連ねるが、処々新しい家が建っていた。山形市でも「美しい街路」と言われる陣場の旧道だが、あと10年くらいで見納めだと思う。
(写真6 今は公民館になった金井村役場跡)
〇道は新道と合流し、小学校の前を通る。
(写真7 金井小学校。昭和初期から位置が変わっていないようだ)
〇しばらく山辺街道を走ると
(写真8 吉野宿。南の椹沢村から来る道との分岐点。)
〇たぶんもともとは「芦野宿」だったと思われる。「あし」は「悪し」に通じるから「良し」に通じる「吉」に直したのだろう。
〇さらに西進し、鮨洗に入る。須川東岸に位置する金井村の西端だ。
(写真9 鮨洗の旧橋跡)
〇水位計が建っていた。おそらく橋はかなり前に落ちたのだろう。すぐ近くに現代の鮨洗大橋が堂々と須川にかかっていた。
〇鮨洗から南下し、去手路に向かう。鮨洗の語源は「スシャライ」、去手路の語源は「サトロ」というアイヌ語だという。
(写真10 去手路から遠望する山形市と瀧山。送電線がなければさらにGOOD)
〇志戸田に入り南下を続けると高規格道路に出て
(写真11 分断された椹沢との村道。金井村の南端だ。)
〇Uターンして志戸田を北上し、荒屋敷から茨田に抜ける途中
(写真12)
〇こんな田舎にも立派な山門がある寺があるんだなあ、と少し感心した。
(写真13 茨田の十字路)
〇昔は一等地だったんだろうと思う。よく商売を続けられるものだと驚く。
(写真14 五軒地区。激狭い道)
〇たぶんセットバックしないと家の建て替えは出来ないと思う。昭和初期はこれでも主要街道として地図に掲載されている。その頃の側道ってどのくらいの道幅だったんだろう?田んぼの畦道みたいなもんだったのかもしれない。
〇というわけで15KMほど旧金井村を探索した。1時間40分ほどで村内主要部を自転車で走ったが、やってみた感想は「うーん、微妙」というのが正直なところだ。
〇家にいてゴロゴロするより体にはいい。次回は3村ほどまとめて走ってみようと思う。